この作品はプシュケ(愛の神、エロスより愛された美少女)又、愛の弓に隠れる少女ともよばれている。 1761年のサロンでの案内状に掲載されたにもかかわらず、この小像の原型をFALCONETは大理石で作らなかった。このサロンの関係者であったGABRIEL DE SAINT AUBINによって制作されたスケッチ画の中にも描かれなかった。 いたずらっ子で冗談好きな18世紀の子供達の好みであった愛の強要、各人の感性の独立性や憐憫の情などの子供の感受性をテーマにすることをセーブル工房は制作に受け入れた。同様に、素焼磁器部門は「PAS DE QUARTIER」と言う作品を創った。 子供、又は「水の精少女」と「愛の強要」の対はFALCONETの大理石素材の代表作品であり彼の名声を高めた。他の彫刻家達はこのような其の当時の好みを受け入れようとはしなかった。 EMILE BOURGEOISは、以下のように講評している。 「髪を後ろで束ね、挑戦的に微笑んでいる少女で表現された女性と子供の間の不確実性はもっとも優美なイメージの一つである。この作品の素晴らしさは 更に、思春期と女性になる期待感の間にある淡い不安も深部まで感じられる」 以上の説明文は、1757-1766年に出版された「IN FALCONET A SERVRES OU L’ART DE PLAIRE」の文章より引用。(2001年にRMN社より165ページで再版) 2001年11月6日より2002年2月4日までセーブル国立陶磁器博物館にて展覧会を開催。 *この作品のオリジナル(台座なし)の内の一体が 帝政ロシアの最盛期に君臨した女帝エカテリーナII世のコレクションとして サンクトペテルブルクの国立エルミタージュ美術館に収蔵されています。 *台座の装飾は国立セーブル工房がモナコ公国王の為に納めた テーブルサービスと同じ装飾です。
(1716年12月1日に生れ、1791年1月24日にパリにて歿)職人の家系に生れ、彫刻は伯父の大理石、石工師のNicolas Guillaumeに学んだ。その後1730年頃から木や粘土の彫刻を始め1734年にJean-Baptiste II Lemoyne(1704~1778)のアトリエに入る。同氏はAnne Suzanne Moulinと1739年に結婚し4人の子供を持った。その子供の一人が将来、図案家、彫刻家、画家になるPierre-Etienneである。1745年Etienne-Maurice Falcontは芸術大学に入学が許可される。1754年Milon de Crotone賞を授与される。その賞品は現在ルーブル美術館に保管されている。その翌年、同芸術大学の助教授になり1761年に教授、1783年に副学長となる。
Falcontは彫像制作において、囲いを使わずソフトペーストのみで造型をする新しい技術を 1752~1753年より開発しビスキュイ、小彫像の制作がセーブル工房で始められる。制作期日の大幅な短縮が可能となり裕福で芸術愛好の 一般市民からの注文も可能となり商業的にも成功を収める。Louis Reauの書評に《芸術家が創る彫像 の原型はまるで舞台の仮の彫刻像のように素早く出来上がり、1756~1766年の間は特にその作品群はMoreauの黄色い証書と共に市場に販売されLouis XV 世の世を謳歌した》
Pierre Ennesも彼の展覧会の記事の中で《セーブル工房のFalcont》の題でEtienne-Maurice Falcontのビスキュイ素材についてふれている。《VASE(花瓶)に古式鉄廻し装飾したり、ギリシャ風花ぶな装飾は多分初めての試みであろう。又、同186ページにこのような装飾は作品を強固に長持ちさせる効用もある。この装飾が次代のセーブル工房のLouis XVI世様式の下地になったことは疑う余地は無い》とも記されている。
並行してEtienne-Maurice Falcontはセーブル工房にて大理石塑像に似た彫像を創り1754~1765年の間定期的に作 品の発表を展覧会で行った。(作品名:L Amour menacant et La Baigneuse1757年作 Pygmalion et Galatee1761年作)又パリの教会の礼拝堂の装飾も制作し、その後Marduel修道院のイコン制作などへの助言もした 。複数の大理石像についての図形教本などの制作もおこなっておりその内容は現在においてもなんら古臭いものではない。
他には個人の好事家に1758年l Amour Falconet et la Nymphe qui descend au bainの彫像を創った。この作品は後年二つの作品に分けて再度作られ展覧会へ出展された。一つは1761年、もう一つは1762年である。
1766年9月フランスを出国しロシア皇帝Catherine II 世のサンクトペテルブルグヘ移り1778年まで滞在した。その間多くの記念碑制作を手がけた。
(エティエンヌ-モーリス ファルコネ)
素材焼成年度:1994年
台座の直径:16cm 高さ:8.5cm
フランス国立セーブル陶磁器製作所工房で創作活動をするビスキュイ作家、陶芸家。
クリエーター:Gilles Bouttaz(ジル ブッタ)
フランス国立セーブル陶磁器製作所工房で創作活動をする装飾作家、画家、陶芸家。
ビスケット・白磁人形
作品は十八世紀の技法による軟質磁器 (ソフトペースト)によって制作されています。
この素焼き白色磁器(ビスキュイまたはビスケット)は、
十八世紀から続く成型・修復作業アトリエで制作されました。
ここではセーブル陶磁器製作所工房独特の白色磁器や彫刻類(丸彫り、浅浮き彫り)、
「セーブルのビスケット」という名称の意図的に釉薬をかけない
白色磁器の作品が1751年から制作されています。
作品にはセーブル工房のロゴと復刻年度が刻印され、
作家のサインが彫り込まれています。
2001年11月6日より2002年2月4日までセーブル国立陶磁器博物館にて展覧会を開催。
*この作品のオリジナル(台座なし)の内の一体が
帝政ロシアの最盛期に君臨した女帝エカテリーナII世のコレクションとして
サンクトペテルブルクの国立エルミタージュ美術館に収蔵されています。
*台座の装飾は国立セーブル工房がモナコ公国王の為に納めた
テーブルサービスと同じ装飾です。
1751年以来の釉薬も彩色も無いセーブル工房の陶磁器彫刻のことを指す。
この呼び名は白い大理石の無垢な冷ややかさを喚起させると同時に、
マイセンの彩色された彫刻作品と区別する為に積極的に取り入れられました。
セラミック素材の呼称であり、
半透明でカオリンの発見以前のヨーロッパで開発された硬質磁器のベースとなる素材。
今日、PTは十八世紀の素材のバリエーションのひとつであり、
1980年にセーブル工房で再開発され、1260℃で焼かれたものが作られました。
「ソフトペースト(軟質磁器)のパテは20ほどの要素から構成されています。
初めのものは鉱物(岩)の結晶、ガベルの塩、岩石の明礬、アリカントのソーダ、
モンマルトルの採石場の高熱で焼かれた石膏、
そしてフォンテーヌブローの砂で構成されている。全ての素材は焼いてから使用される」
(セーブル陶磁器博物館におけるファルコネ展の図録より抜粋)
※複雑で高度な技術を要しコストのかかるこの製法は
1804年に中止され近年まで生産が中断されていました。
しかしジスカールデスタン大統領の時代、彼の命により再生産が開始されました。
芸術家の師弟の絆は強く又その助言者達にも特別な関係が生れやすい。Marie-Anne Ollot(1748~1821)はLemoyneのモデルであったがそのアトリエに通うPierre-Etienne Falcontと1777年に結婚した。只1780年には離婚する。この彫刻家の性格は結婚生活には向いておらず、次世紀に対し制作した数々の作品の傾向のように革命的な気性が災いしたようだ。
Falcontの作品に多くのFrancois Boucherの影響を見逃すわけにはいかない。この2人の芸術家はCrecy城の庭園内にある、酪農場に設置するための彫刻像の下見の際1749年に初めて出会った。この酪農場はポンパドール夫人の別邸として模様替えが行われていた。Boucherの図案てFalcontがビスキュイを制作するパターンは後のセーブル 工房での制作へと引き継がれていく。
1757年、王立セーブル工房の彫刻部門責任者に任命される。Falcontは週のうち一日をセーブル工房で仕事をした 。磁器作品の前段素焼きの原型作りである。多くの作品はFrancois Boucherの図案構図や絵画からの啓示を受けている。ポンパドール夫人所有のCrecy城の別邸に置かれた数々の作品もこのBoucherの絵画の影響が多く見られる 。その後、次第にFalcontの制作テーマは二つの流れに絞られて来た。一つは「子供」をテーマにした彫像でありもう一つは「 Fontaine寓話」である。只ここでもFrancois Boucherの芸術的相続人であることに変わりはなかった。小彫像の作品群は「動き」に重点をおいてセーブル工房で磁器素材で制作された。この作風は1764年から1766 年にかけて広く欧州全体へ波及した。
Falcontは彫像制作において、囲いを使わずソフトペーストのみで造型をする新しい技術を 1752~1753年より開発しビスキュイ、小彫像の制作がセーブル工房で始められる。制作期日の大幅な短縮が可能となり裕福で芸術愛好の 一般市民からの注文も可能となり商業的にも成功を収める。Louis Reauの書評に《芸術家が創る彫像 の原型はまるで舞台の仮の彫刻像のように素早く出来上がり、1756~1766年の間は特にその作品群はMoreauの黄色い証書と共に市場に販売されLouis XV 世の世を謳歌した》
Pierre Ennesも彼の展覧会の記事の中で《セーブル工房のFalcont》の題でEtienne-Maurice Falcontのビスキュイ素材についてふれている。《VASE(花瓶)に古式鉄廻し装飾したり、ギリシャ風花ぶな装飾は多分初めての試みであろう。又、同186ページにこのような装飾は作品を強固に長持ちさせる効用もある。この装飾が次代のセーブル工房のLouis XVI世様式の下地になったことは疑う余地は無い》とも記されている。
並行してEtienne-Maurice Falcontはセーブル工房にて大理石塑像に似た彫像を創り1754~1765年の間定期的に作 品の発表を展覧会で行った。(作品名:L Amour menacant et La Baigneuse1757年作 Pygmalion et Galatee1761年作)又パリの教会の礼拝堂の装飾も制作し、その後Marduel修道院のイコン制作などへの助言もした 。複数の大理石像についての図形教本などの制作もおこなっておりその内容は現在においてもなんら古臭いものではない。
他には個人の好事家に1758年l Amour Falconet et la Nymphe qui descend au bainの彫像を創った。この作品は後年二つの作品に分けて再度作られ展覧会へ出展された。一つは1761年、もう一つは1762年である。
1766年9月フランスを出国しロシア皇帝Catherine II 世のサンクトペテルブルグヘ移り1778年まで滞在した。その間多くの記念碑制作を手がけた。
フランスに戻った後1783年に病に陥り彫像についての論文整理に専念する。 又、古来の芸術文献を学び芸術大学の良き助言者としてあり続けた。Falcontには変わらぬ後援者と友がいる。彫像の良き理解者であるポンパドール夫人1752年にLa Musique、花と果樹の女神の彫像をCrecy城に制作し、1757年L Amour像をパリの別邸に制作した。この建物は現在は大統領官邸となっている。Falcontの友人である Denis Diderotの伝評作家でもあるが《ここに一人の人間がいる。比較のしようのない万物起源の質のわかる者。彼は土を練る》Diderotは1759年、百科全書の彫刻に対する技術、哲学の深遠な説明を生みいつまでも変わらぬ友情は終わることが無かった。他にもDimitri Alexievitch Galitzine王子(ロシア皇帝Catherine II世の在フランス大使も1765~1767年に努める)Falcontのロシア滞在中の住居も提供した。1773年には Diderotと3人の面談もロシアで成った。
Etienne-Maurice Falcontは数多くの素焼き塑像も制作した。注文はフランス王の建物のための作品もあるが、特筆すべき新しい装飾は1753年パリのSaint-Roch教会、Marduel修道院の作品である。